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深海に点在するお地蔵様を尋ねてまいりました
深海の「地蔵さん」巡り
目 次
深海の「お地蔵さん」の帽子 @先ず最初は船津崎のお地蔵さん A古道のお地蔵さん B今回は下平のお地蔵さん C子下しのお地蔵さん D浦河内の先(県道沿い)のお地蔵さん E下平入り口のお地蔵さん F多々良のお地蔵さん G H I下平の尾上地区「あさっがわ」のお地蔵さん 深海の「地蔵さん」巡り (番外編)
@浦河内の山ん神祭り (h、18,12,14、追加更新)
A下平の「観音様」 B下馬刀島の霊を迎える「鎮魂の碑」 C浅海の「神様」 D浅海の「恵比寿様」 E鶴長家の「水神様」 F深海の「恵比寿様」 更新お知らせ
体力維持のため自転車で下平の改善センター近くの地蔵様Iを尋ねに行ってきました。
これはKOさんから「下平にもう一つお地蔵様がありますよ」と聞きましたので探してきました。
深海の地図を開くと「地蔵さんの所在地」がわかります。
番号が対応しています。なお、地図からここへジャンプできます。
ここの目次からもジャンプ出来るようにセットして頂きました。
深海の「地蔵さん」巡り
@ 先ず最初は船津崎のお地蔵さんです。
船津崎から白浜へ行くカーブのところにあり、
ここの地蔵様は「六道菩薩」と記銘され隣にもう一体ある。
建立は「天保六年十二月」(1835:約170年前)とあり、
その横に「船津第一小組合」「昭和十六年旧三月建替」とある。
だから、何かのわけがあって建て替えられたのだろう。
また、母の証言で、昔は白浜寄りの川の傍にあったのを
現在地に移転(年不明)されたと言う。
移転もこの時か?(小生6年生)
地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である菩薩の一人。
大地と胎内・子宮の合成語で、意訳して「地蔵」とされる。
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を
その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。
「六道」とは、「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道」を言い、
日本では、地蔵菩薩の像六体を並べて祀った「六地蔵」が各地で見られる。
六地蔵は墓場の入り口に建てられている。(出典:フリー百科事典『ウィキペディア』)
ここのは、二体のお地蔵さんである。昨年末に、台風で壊れていた祠を近所の川端さんが新調された。
なお、ついでながら川端さんの奥様が毎日のようにお花を換えられて綺麗な花が絶えたことはない。
(文章を赤頭巾と目・口・青い涎掛けの地蔵様の形に仕上げました。お地蔵様に見えますか?)
お地蔵様も衣替え(06.2.21up)
平成18年1月6日UP
17日東の山○ソ○さんが亡くなられ、そこの墓場(上の方)まで行く道端に、
一番の「地獄道」から順に「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人道」6番の「天道」まで写真のように立てられていた。
こちらでは、浄土宗のお葬式に「六道菩薩」の面影(名残)を見ることが出来た。
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(この写真は1月17日UP)
深海の「地蔵さん」巡り
A 古道のお地蔵さん
ここのお地蔵さんは誰もが知っている、水のみ場の前にあるお地蔵さん。(通称古道・カーブを曲がれば古道橋)
2つの祠があり、向かって左側のほうには「御大典記念」とあり「昭和3年11月10日」と刻まれている。
なお施主は「藤川継太郎」「瀧下キヤ」と並べてかいてある。
「御大典」とは昭和天皇が即位された日である。深海でも提灯行列がなされたとの記録もある。
藤川継太郎(瀧下キヤと従兄)ー藤川寅雄ー藤川高行(現在)
瀧下キヤーー(継太郎と従妹)−瀧下次八ー瀧下 進(現在)
現在管理は瀧下さんと藤川さんがなさっている。祠の屋根も長男の寅雄さんが
平成元年11月に銅版にて葺き替え、当時相当の金額だったらしい。
またここの地蔵さんの涎掛けは濱石ハツヨさんの手作りで、ここの掃除を毎月なさっているのが、
ハツヨさんの妹の石山弘美さんである。したがって、皆さんの水のみ場もいつも清潔であり、
利用者も多く皆さんが感謝している。
なお、ついでながら女淵から深海までの県道が開通したのは大正14年で、
深海に電灯が点ったのは昭和2年である。
右側の地蔵様は口元俊市さんの父美代造さんが明治43年旧3月吉日の寄進で、
自宅近くに安置されていたのを昭和の時代に現在地に移転されたそうだ。(俊市氏談)
なお刻字が鮮明でないが「旡日興地蔵佛」とあるが、
(日蓮正宗 日蓮大聖人の弟子「六老僧」の一人「日興上人」だろう)
「日斗」「二十八才亡」とある。(誰かはっきりしない)
なお、この地は東多々良の区有地であったがためここに移転されたとのことである。
旧暦の三月二十一日のお大師さんの日の御接待は瀧下さんと藤川さん・口元さんの皆さんでなさっています。
皆さんの中にも御接待をいただかれた方が多いと思います。
平成18年4月18日(旧3月21日)お接待の様子
右から藤川さん、口元さん、瀧下さんの家族でお接待です。他はお客さん、私もお接待に預かりました。
深海の「地蔵さん」巡り (番外編@)
浦河内の山ん神祭り
(山ん神祭りは、旧暦の11月最初の丑の日)
お赤飯を供えてあります。
Wさんの「神様の刀は右の腰に差してある」との指摘により調べましたところ、
何と「山ん神様」は「左利き」だそうで、それで右の腰に差してあるのだそうです。
なお、注連飾りの縄もすべて「左ない」になっているそうです。
(でも、神様は右手に持っていられうるようです)
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浦河内の人たちは。朝から「山ん神様」にお供え物をし、火を焚いて
「今日1日は山に入ってはいけない」ことを昔の慣わしどおりに煙で皆に知らせている。
(Wさんは、子どもの頃ここのご馳走を頂いたのが、楽しい記憶としてあるそうだ)
「キリシタン宗門は累年御制禁たり 自然不審者これあらば申し出ずべし」
こんな「高札」(立て札)が庄屋の家の前に立てられた。この期の事であった。
深海村のある青年が無実を訴えられ、富岡へ引かれる日が
「11月の最初の丑の日」つまり「山ん神祭り」の朝であった。
村人は親孝行の青年を惜しみ「せめて小豆飯」でもとの心配りから
朝から祭りをして青年を送り出すことになった。
しかし、庄屋・年寄りの赦免願いも空しく彼は帰らなかった。
そのことがあってから、彼を偲ぶために山ん神祭りは「朝祭り」となったそうだ。
ここの写真は平成16年のものです。平成18年2月15日up
平成18年の山ノ神祭り
今日あいにくと雨になりお祭りも早々に切り上げ
建立年月日は昭和35年となっている
このことについては、こんないわれがある。(谷川区長談話)
以前は現在地より500〜600メートル程上流に祀られていましたが、
神様はたびたびの大水で流され、そのたびに区民は川底をさらえて探されたそうです。
或る年の大水でどうしても神様が見つからなかったそうです。
そこで区民話し合いの末現在地に移転されたそうです。
しかし、現在地も当時は低い地盤でこちらでも流されたそうです。
そこで区民総出で地盤をあげ石垣を築きその時に神様も新調されたのでしょう。
その時が昭和35年です。
上流を見てきました。両側とも最近護岸工事がなされていました。
500〜600メートルほど上流の所にあったということでした。
だから今無人精米機が置いてあるあたりを字名は「木置場」ですが、
通称「山ン神前」と言うそうです。
ここで護岸工事は終わっています。どうやらこの付近に祠があったらしいです。
今年は旧暦11月最初の丑の日が新の12月26日に当たるので
ちょうど年末で忙しいからと旧10月最後の丑の日に変更になりました。
(平成18年12月14日)
深海の「地蔵さん」巡り
B 今回は下平のお地蔵さんです。
左上が県道です。2体のお地蔵さんが祀られています。
昭和七年七月十六日建設と刻まれた石があります。
建設者は右から、折口犬児・満岡○○・岡ア○○・山角○○・宮ア○○・とありますが、
名前のほうは風雨にさらされて石が砕れて読めません。
そこで先に紹介しました、濱石ハツヨさんに依頼して、知り合いの方に聞いていただいて
下記の通り判明しました。
折口犬児=(現在は下平にはいらっしゃいません)
満岡末吉=(現在は下平にはいらっしゃいません)
岡ア寅松=岡ア義孝(故人)=奥様の岡アハナエさんが管理(哲ちゃんのお母さん)
山角伊之助=(現在は下平にはいらっしゃいません)
宮ア保次=(現在は下平にはいらっしゃいません)
ここに越してこられた折口さんが井戸を掘ったら清水が湧いてきたそうです。
深さは1メートルくらい。それに感謝してお地蔵様を建造されたのだそうです。
今も右下の方からあふれた水が流れ出ていました。
小さい時に拾われた猫ちゃんも大きくなってとてもなついていました。
(情報)
ある方からの情報でここの水は保健所の検査の結果、
pH7.4で可、細菌等異常なしだったそうです。
しかし検査の前の日に哲ちゃんと幸○さんが井戸掃除をなさったために
濁りがあって水質基準に達しなかったそうです。
だから飲んでも大丈夫。とその方は言っています。
2度目の取材?の時哲ちゃんのお母さんがいらっしゃって
「今でも近所の者は利用しています。しかし、昔は水面と道路がほとんど同じ高さでしたが、
「側溝や道路の工事をしていただいたため水面との差が出来て水を汲みにくくなりました」
とのお話でした。
また、濱石さんに調べてもらったら、この右側のお地蔵さんが古い方で、
左の方が新たに造られたお地蔵さんで造られたのが昭和七年だそうです。
古い方もこの5人が発起人でしたが、昭和7年には、
すでに満岡さんと山角さんは故人となっていられたそうです。
平成18年1月30日up
深海の「地蔵さん」巡り
下平の中村商店から左折して「菅(すげ)」「水道(みど)」の方へ九十九折の
狭い坂道を上っていくこと車で10分。右側の山肌にへばりついたような祠が見える。
この祠は、平成三年五月吉日建立(地蔵様は昭和18年寄進)
山下孝幸・山下為雄・岡崎哲郎・瀧下将秀・山下一文氏の名が記されている。
ほうきも備え付けられ綺麗に整理されている
ここのお地蔵さんは涎掛けが何枚も何枚も重ねてある。亡き子どものことを案じてか?
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お地蔵さんは二体あって右側の方には正面に「南无地蔵尊菩薩」とあり
右側面に建立年、昭和十八年三月吉日とあり、
左側面には寄進者の山下シミ・同 イマ・大田ミツヨとある。
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左側の地蔵様には正面に「奉寄進」「南无地蔵菩薩」「當地 山下タミエ」とある。
右の標柱は「去家(さるや)」という地名が珍しかったのでここに掲載。
以前は家があったが今では人が去って無いと言うことか。
当時、昭和18年の出来事は、
・2月日本軍ガダルカナル島撤退 ・4月山本五十六長官戦死 ・5月アッツ島日本軍全滅
・6月学徒戦時動員体制 ・学生の勤労動員 ・12月徴兵年齢一年引き下げ ・予科練の歌が流行
翌19年には、・9月17才以上を兵役に編入 ・10月神風特攻隊初出撃
・未婚女性徴用 ・竹ヤリ訓練 ・タバコ配給1日6本 ・B29東京爆撃 ・ラバウル小唄流行
このような時代の中にお地蔵様を寄進するということは、
銃後の女性として何かの思い入れがあったのであろう。
(当時小生は師範学校入学・14才)
(この写真は19年春)
下平地区の字名地図です。
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通りがかりの人が気づいた時に花をあげられるそうだ。
「今朝私が換えておきました」とおっしゃる、平 実さん。
この「子下し地蔵様」のいわれは?
昔々、下平から農作業に来ていた女性・特に妊婦さんたちは姑の眼もあってか、
臨月になっても朝早くから夕方遅くまで畑に出て働き、
それが下で流産をしたり、とうとう畑で出産なされた方もあったとか。
不幸にも子どもさんを亡くされ、中には母子共に亡くなられたとか?
そこから「子下し」の名が付いたと聞いた。
そんなことから、昭和18年に皆さんで話し合われて
当時の女性たちのことを慰めようと、
また、後世に伝えようとお地蔵様を寄進なさったのだろう。
私は、今まで「木下し」(こくだし)とばかり思っていた。
当時は「休み場」(やすんば)もあった。
木材を運ぶ途中、山師さんたちがタバコ一服の休憩をされたのだろうと思っていた。
こんな悲しい物語を秘めたお地蔵さんであったとは?
なるほど、そう言われてみると寄進者・建造者はみな女性である。
現存する人がいないので確かなことはわからない。
「泣き河原の浜」(なっごらんはま)の話よりも,もっともっと切ない話ではある。
もしご存知の方がいらっしゃったらお教えお願いいたします。
証 言
@ 下平出身のKOさん(現在大阪にお住まい)から、
「畑で生まれた子どものことは家の母方の祖母のことです。
幼い頃母から良く聞かされていました」との証言を戴きました。
A 家の母も戦後、本郷でもこんな事があったよと教えてくれました。
「峠の地蔵様にまつわる悲話」
石山さんが熊日に投稿されたものです。
平成18年2月10日up
弘美さんの投稿を見た、と言って濱先生からはがきを戴きました。
子 下 し 地 蔵 作詞 深海魚
註:石山さんのお話を読んで、何とかこのことを後世に残したい
と思い、私の拙い智慧を膨らませて「詩(ウタ)」を作ってみました。
ご感想をお聞かせください。
濱先生からのはがき
深海の「地蔵さん」巡り (番外編A)
下平の観音様
下平のはずれの最後の集落の所にお地蔵様を
祀ってあった建物が、写真のように現在はありません。
お地蔵様だと思っていたのですが、
ここにあったのはお地蔵様ではなくて観音様で学校の近くにに引っ越されていました。
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棺小屋
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下平の学校近くの「棺小屋」の中に「観音様」と「お大師さん」が祀られています。
棺小屋=昔の葬式は土葬で、亡くなった人があると地域の者皆で仕事を分担して葬式の準備をしたものです。
墓穴を掘る人・魂屋を作る人・その他いろいろと道具が必要です。それらのものを皆で準備しました。
そんな葬儀用の道具を仕舞っておくところが「棺小屋(がんごや)」です。
現代は、お棺も寝棺となりましたので棺を乗せる台も細長いものです。
ここには、地方を回って生活していた「賎者殿(ぜんもんどん)」も寝泊りしていました。
平成18年2月12日up
深海の「地蔵さん」巡り (番外編B)
下馬刀島の霊を迎える鎮魂の碑
建碑のいわれ
天保十年、深海地区に悪疫疱瘡(天然痘)が大流行し死者多数なりと伝えられる。
当時、この疱瘡は確かな防疫法なく患者を隔離するのが唯一の対策であった。
したがって、この疱瘡に罹病したる者は沖合いはるかな孤島、「馬刀島」に病人小舎を
設けて流人とされた。この患者たちの病苦の愁訴は海を超えてこの地まで届いたと
伝わる程である。今ここに帰りたくして帰れず馬刀島の土と化した疱瘡患者の霊を
迎え鎮魂の碑を建立する。
昭和五十七年八月
深海地区民一同
なお、裏に{深海地区・下平地区協賛で建立す」とある。
(いわれは向かって右側の面に刻ってある) どんくのつぶやき=3−6(馬刀島)
平成18年2月20日up
深海の「地蔵さん」巡り
H 大松(うまち)近く丸崎の地蔵様
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浦河内を越え浅海への下り坂の「椎ノ木崎遺跡」の看板から入って行きます。約2キロ。
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椎ノ木崎遺跡の道順をたどっていきます。
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この家(二階建ての小屋)の道端にあります。
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灯篭でしょうか?
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右手にはミカンと稲穂を持って・・・・
ご本尊「地蔵菩薩」台座には(交通安全・無病虫害)とあり、
正面の横木には「一心専念」とある。昭和58年2月吉日建立
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きれいな岩清水が引いてあります。 右=奉納「地蔵菩薩」昭和61年2月吉日 有志一同
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左が正面、右が裏側
製作者の名前と建立日/平成16年10月がある。
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下の田んぼの端にはこれまた奇妙な形のものが建っていました。(降りていかれませんでした)
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大松(うまち)方面から眺める
平成18年2月26日up
岩下さんを訪問し「地蔵様」の謂われをお尋ねしたところ上記の「熊日新聞」を見せてくださいました。
平成18年3月4日up