(1)
深海の方言辞書の出典 
(2)
著者「川上豊」について 
(3)
深海の方言について 
深海の方言辞書1(ア行)  (カ行)
深海の方言辞書2(サ行) (タ行)
深海の方言辞書3 (ナ行) (ハ行)
深海の方言辞書4 (マ行)
深海の方言辞書5(ヤ・ラ・ワ行)
五家ノ荘の方言と深海の方言
  

 

深 海 の 方 言
(1)深海の方言辞書の出典
 

 「深海の方言辞書」は、「川上豊」著「深海の歴史」(どんくのつぶやき)註:鶴長研治編集・印刷・製本の第4巻「資料編」に納められている。著者は、14,5歳の頃から歴史に興味を持ち始め、年配者の話を聞いたり、物を収集したり、さては遺跡を訪ね古本屋から古文書を探し出し、はたまた神社仏閣を訪ねては自分の疑問を一つ一つ解決している。
 そして、著者は後に都(大阪)を目指した。
故郷「深海」を去るに当って古里の山である「六郎次山」に「錦を飾って故郷に帰る」との誓いを立てて大阪に出たのである。

「老いて再びこの故郷に晴れ晴れと帰ることが出来るであろうか」

との危惧の念を抱きながら。(本文から) 大阪に出てから年を経る毎に

「深海のことを書き残しておかないと誰も本当のことを知らないで忘れ去られてしまう」

こう思った著者は、それから、新聞のチラシの裏やそこいらにある紙を見つけては思い出すままに記録しはじめたのである。
 著者は、それらの膨大な資料を小生の所に送って「本にまとめてくれ」と言うのだった。文才の無い小生、ましてや一番の苦手ときている歴史ときてはただただ尻込みするばかりであった。しかし、その内容を見ていくうちに「これは大変な物だ」と思った。これは、何としても叔父上の(小生の家内の叔父)郷土を思う強い愛情とねばり強い意志と大きな願望をまっとうさせなくては、と思うようになった。
 そのころ、ワープロを買ったばかりだったので練習のつもりでベタ打ちに打ち込んでいった。ちょうど、現職を退職した平成元年のことだった。それから10年。深海に帰ってからどうやら打ち終わり、4分冊に編集して印刷・製本まで自分で行いようやくにしてできあがった。手作りのため50部しか出来なかった。製本では深海小の尾崎教頭先生と如田先生に大変お世話になった。

(2)著者「川上 豊」について
 

 著者「川上 豊」は、父「鶴長伊喜治」と母「ミエ」」の五男として、大正11年7月10日、深海村793番地に「鶴長 豊」として誕生す。叔父は、昭和21年「菅」の「川上家」との養子縁組で「川上 豊」となる。
 実は、叔父の名前には彼の父「伊喜治」の次のような愛情物語が秘められていたのである。
 叔父が生まれたとき父 伊喜治は彼のために「千賀男」と言う名前を用意していた。それは、これまでの自分の子供に、長男「千年」次男「千憲」三男「千隆」四男「千明」とみんなに「千」の字をつけていたからだった。
 しかし、父伊喜治は考えた。
 「こんなに千ばかりを付けていると、[千負け]しはしないだろうか?」子供の将来を案じた父は考えに考えぬいた末に、この子が末永く安泰に暮らせるようにとの心遣いから「豊」(ゆたか)と役場に届け出たのだった。しかし、家では「ちかお、ちかお」近所の人たちも「ちかおさん、ちかおさん」と呼んで誰一人として「ゆたかさん」と呼ぶものはいなかった。
 おまけに、養子に行き姓まで「川上」と変わったので、深海の人でさえ「川上 豊」は「鶴長家」とは関係のない人と思われていた。
 その叔父も、平成12年の秋に入院し、「どんくのつぶやき」の1・2巻だけを見て3・4巻を見ることなく平成13年正月帰らぬ人となってしまった。しかし、全巻を生前に完成し読んで下さった人々から喜んで頂いたことで叔父上に対しても申し訳が立ち、又、これだけの仕事をさせてくれた叔父上に感謝している。
 父伊喜治の願いどおり五男「豊」は5人兄弟の中で一番の長命であった。

(3)深海の方言について
 

 お国訛りを つい悟られて 唄いましたよ 安来節

 何とほのぼのとした歌詞であろうか。私は今、ここ大阪の地に来ても家庭では20数年前の「深海弁」を使っている。故郷ではもう通用しなくなったような昔の言葉も出てくる。
 20年ほど前のことである。
 急速で入港して来た船から2〜3人が上陸して何か言っている。作業員は相手の言葉が分からず戸惑っている。私が近づいて一語聞くと、何と故郷の訛り丸出しの「牛深弁」ではないか。私はいきなり、
 「あんた達は、カセンナか?フイグタマか?」(カセンナ⇒加瀬浦、フイグタマ⇒古久玉)
とこれも牛深弁で聞いた。彼らは、ほっとした表情と驚いた顔で、
 「はい、わしどみゃアカシでござすと」(アカシ⇒明石)
と答えて、「ウインチが故障して修理をしたいのでクレーンで巻いてくれ」とのこと。私は、すぐ今までの作業を中止させて、船を交替させて彼らの要求を入れた。彼らは、
 「あおー、こんまれに会うて良かったよない」
と言って何がしかのお金を差し出した。私は、
 「深海に戻れば、わしも世話んなっとじゃっかな。怪我せんごてな」
 「茶どん飲うで行けな」
と言ったが、事務室には入らなかった。「地獄に仏」とはこのようなことであろうか。精一杯の喜びを牛深弁で言って帰って行った。私も、良いことをした嬉しさと、仕事の充実さを感じながら夕焼けに染まった海に消えてゆく彼らの船を見送った。
 故郷の言葉を話したことで、今まで胸につかえていた何かがいっぺんに流れて行くような気がした。

 

(本文より)