1-10多田蔵人行綱神社の跡
関西牛深郷友会会長   
                          川上  豊    
 深海湾の中央南側、通称「向かえ」と言い慣らされている一隅に「宮ん前」と「コウヤ」がある。伝説として、神社跡といわれてきたが何となく聞き流してきたものである。が、口脇久男さん、浜元与吉さんなどの協力を得て、ここに神社の存在を確認することが出来たのである。
 「コウヤ」とは、舞楽を奉納する建物の事であり、神社は此處の丸山の延線とお手ヶ崎の稜線が合う所にあり、お手ヶ崎からの参道が山中に切れ切れ乍ら50メートル程続いている。この参道は恐らく外来から、特に長島方面からの為の参道であろう。
 深海の中心は深海地図の中の「向山」「古場」であり、この中心からの道路は「ナコマ」に歴然として残っている。何時の頃からか伝承されている話。
一、故 須崎 武嘉七 氏
昔、鳥毛を振って大きな祭りがあったそうな(内容は不明)
一、故 須崎 松男 氏
私の先祖は畑ん中から鳥居を掘り出した。(鳥居とは高さ30センチ 横20センチの鉄板、厚さ2ミリで信者が、御願い成就の為奉納したもの)など其の外にも色々伝えられていた。
 これらの事を裏付けする文書が天草の乱(寛永14年)1637年以前大道村(竜ヶ岳町)の庄屋であった頃の話で、江戸時代は中田村(新和町)の庄屋となった大堂家に残されている。


 【松より姫 の民話】

 平家の落人で「蔵人行綱」という殿様が薩摩から深海というところに落ちのびて、基処で亡くなられ、神社に祀られてあった。ところがその奥方になる「松より姫」という人が、主人行綱の後を追って薩摩から天草へ便船で来られたとの事であった。
 ところが、その奥方が立派な衣装を着ておられたので、その船頭たちが着物欲しさに松より姫を殺してその着物を盗みその死体を今の「松ヶ鼻」(地名)に埋めてしまった。
 それから正和7年註(正和=1312〜1317)1318年)頃になって深海の或る農家の娘(19才)に死んだ蔵人行綱という人が枕元に立ち
 「俺の妻が大道という所におっで、なんさま一緒に祀ってくっど」
というお告げがあった。それで深海から赤旗を幾本も立てた船をこいで来たのだった。村の人たちは何のためにこんな船が来たのか驚いて聞いてみたら、「松ヶ鼻」に「松より姫」を埋めてあるというので掘り出しに来たのだとのことであった。そして初めて来たとときはそのお告げのあった娘を連れて来なかったので、どうしても埋めてある場所が解らなかったそうだ。
 それでどうしてもその娘を連れて来なければつまらんといって、再びその娘を連れて来た。そしたらその娘が「ここ」と言ったのでそこを掘ったら、本当に真っ黒になった骨が出てきたのでそれを持ち帰って蔵人神社に一緒に納めたという話。
 以上が350年或いはそれ以前かも知れない老婆が伝えた物語りである。蔵人行綱とは、鬼退治で有名な源頼光の末裔でありながら平家方に味方して源氏に追われる身となった「多田蔵人行綱」の事である。
 文治元年(1185年)11月より彼の行動は不明になっている。深海と言う人里に遠い所に隠棲したが為であろう。
 其の頃、既に六郎次の山中には、文徳天皇の第一皇子に生まれながら源氏始祖清和天皇に追われた惟喬(コレタカ)親王を祖とする木地師が住んで居た。この木地師を頼りに落ちのびたのであろう。
 また、行綱の生存を知りはるばる兵庫の国(多田氏の所領地は現在の兵庫県川西市)より落塊の身の供もつれず海山遠く敢え無い最後を遂げる松より姫の話は、余りにも哀れで余りにも悲しい。
 時代を経て小西行長の頃になると、切支丹布教の為に神社、仏閣は破壊されたが、ここ多田神社は、信者によって隠匿され寺沢領の頃復元されたものであろう。天草の乱によって、無人となったこの部落から御神体は船によって持ち去られたのである。
 神の乗船によって、船足が重く遅くなったことが伝えられて、行方不明になったのである。
 應長元年(1311年)「尼妙性避状案」に、天草のどこよりも早く「深海」の地名が出てくる。年貢高の僅かな「深海」の地を何が「尼妙性」に地名を印象づけたのか、それは「深海」が「倭寇」の地であり、「木事師」の里であり、天草氏の東玄関口であったり、また、「多田神社」があったためであり、天草水軍の軍船繋留の地であったからである。
(この文は、「大阪牛深郷友会」の会誌に掲載されたものである。)